講師 | 杉山寛行 理事・副総長 |
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開講部局 | 教育学部附属中・高等学校 2010年度 特別講義 |
対象者 | 附属高校1・2年生 |
何かを伝えようとする時、その表現にはさまざまな「かたち」が用いられます。身振り、音楽、文字、絵画、映像・・・。文字で表現する場合でも、メモ、手紙(私的なもの・公的なもの)、文書、詩、散文、小説・・・。それら媒体の異なりは直接表現の違いになります。そうした特徴を理解したうえで表現されたものを「読んで」(理解して)みましょう。
伝えようとする人は理解されることを望んでいます。そのためにいろいろな工夫をします。そうした工夫を「読み」取ることが出発点です。今回は「映画」を読んでみましょう。
高校生の取り組みの様子 (PDF 文書, 114KB)
(授業後の大谷尚附属学校校長による振り返りインタビューより)
それはちょっと違うかもしれません。今日の授業は、興味をもってもらって、共通に僕とも一緒になって理解していただきたい、僕自身も興味を持っている、ということが前面に出ている。大学の授業は学年によって少し違うんですけれども、研究の段階の場合は、研究を支えるための技術的な部分もトレーニングして獲得していただかないといけない。
普段の学校の授業を離れて、中津川の合宿所に来ている。普段は教科という枠がありますが、問題に対して何かを解決したり、考えようとした場合は、教科を総合して、その枠を越えないといけない。このことを目標とした授業だったという点ではないでしょうか。
大学の立場に立っていうと、教科の学力中心の入試制度には大きな問題があると思っています。現実に教科の学力だけで入ってくる学生諸君を見ていると、大きなもろさがある。例えば、数学が好きだというんだけれど、問題を速く解く、そのためには問題を解く前に先ず解答を見て解き方のパターンを覚えるという。それは本当の数学的な力になっているのかなと思います。一方、現在の名古屋大学の入試は定員の 18%が推薦入試になっている。教科の学力の評価以外にどういう評価がありうるのか、を真剣に考えないといけないということもあります。高校生の持ち得る、教科を越えた基盤的な力にはどういうあり方があるのか、中津川プロジェクトはそのための試みという意味もあります。
表現という枠の中ではストーリー、プロットなど共通する部分があります。しかし媒体の違いによって、それぞれ特殊な部分があります。今日の例でいうと、映画では冒頭の部分で登場人物の性格と置かれた状況を素早く観客に示さなければいけない。文学表現ではそこまで要求されない、という点などいくつか挙げることができます。
僕はどちらでもよいと思うんです。映画をどういう風に自分と位置づけるかで決まってくると思います。映画を研究対象として見る人と、エンターテインメントとして見る人で言語化をすることで得られるものは別な種類のものだと思いますので。ただ、「どうしてこの映画に自分は感動するのか?」「この映画をなぜ自分は好きなのか?」といったように映画を通して自分を振り返るというスタンスだと、映画を言語化していく過程が 1 つの手段として有効だと思います。
映画を読んでみよう (PDF 文書, 82KB)
May 16, 2020