タグ「退職記念講義」には 50 個の授業があります.

私は、1978年に大阪大学で博士課程を終了し、東北大学、科学技術振興機構に勤めた後1995年に設置されたばかりの理工科学総合研究センターに赴任いたしました。それから丁度20年、名古屋大学で教育・研究に従事させていただきました。主分野は電子顕微鏡学で、装置や手法の開発に携わって来ました。有難いことに、本学では学生の教育とともに、自由に研究することが許され、いろいろなプロジェクトで楽しく研究をさせ ....

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理系文系の人たちが、それぞれの学問分野を深くなお深く掘り下げてゆき、一定のレベルに 達すると、あらゆる学問分野に通ずる地下水脈に到達する。その人たちのうちで周りを眺める器量を持つ人たちは、地下水脈を通じてお互い の学問分野の勘所を理解でき、有意義で建設的 な対話ができる。この考え方は営み一般に当てはまる。ある「こと」を理解したいとする。その「こと」をできうる限 り正確に ....

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私は本年3月末で名古屋大学を退任いたしま す。学生または医師として鶴舞の医学部/附属 病院にて 37 年間を過ごさせて頂きましたので、鶴舞にはつらい思い出や楽しい思い出が数多く 残っています。若い時のつらい思い出としては、学位研究であります。良いデータを得るのに時間がかかり論文作成に苦労しました。楽しい思い出は、そのデータを用いてアメリカ消化器病学会で発表が出来たことです ....

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このページの紹介動画は、濵口先生からの「後輩へのメッセージ」です。 最終講義の資料と映像は「講義資料」の項でご覧いただけます。 ....

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私は2015年3月末をもって名古屋大学を定年退職します。名古屋大学在職中に関係の皆様から寄せられたご厚情に対し、心よりお礼申し上げます。私は名古屋大学において、2つの部局でお世話になりました。医学部 (医学系研究科) と教育学部 (教育発達科学研究科) です。私は医学部を卒業後、精神医学教室で、一般精神医学と児童精神医学のトレーニングを受けました。その間10年近く、いくつかの公的精神病院に勤務 ....

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1980年に名大経済学部に赴任して33年間、教員として過ごしました。三重県(津市)の出身ですが、名古屋は初めてでした。専門は組織論です。当時、経営学の中で、組織論を専門とするのは、私1人だけでした。そのため、研究も教育も、自由にやらせてもらいました。私は、Organizationは、OrganizingとOrganizedからなると考え、組織学は、 Organizing(組織生成)の理論と ....

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私は本学の理学研究科で学位を得た後に、プラズマ研究所、プラズマ科学センター、そして1995年からは理学部にお世話になりました。所属場所はキャンパス内の1 km弱の距離を行ったり来たりしていたことになります。ただし、プラズマ研究所時代に2年間の米国留学という大変貴重な経験をさせていただきました。非社交的な私ですが、何故か米国生活がとても楽しく、それだけに短い滞在期間にも関わらず、深甚な影響を受け ....

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鴨長明の方丈記の有名な一節「行く川の流れは絶えずして……」が好きでいつも研究に当てはめている。時の流れは不可逆であり、それ故に研究テーマの選択は重要で、古いものにしがみつき変わらないと問題を起こす。「うたかたのように澱んでいたら」変わらず、潰れる大企業も研究者もしかりである。最近の研究バブルの古今東西、過去40年を見てみると研究テーマも評価方法も変わってきた。しかしながら、 全ての人が適応でき ....

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名古屋市立大学での16年間の勤務の後、1999年名古屋大学に赴任し、14年間の歳月が立ちました。40代までは自分の人生の長さは無限のように思って生活していましたが、名古屋大学に来てからは、残り10年余の限られた貴重な時間の充実した研究・教育の場にしたいと思ってやってきました。このような思いもあって、大学院の重点化や大学の独立行政法人化とめまぐるしく大学改革が進む中で、落ち着いて研究・教育に専念 ....

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 1987年に文学部印度哲学史講座助手として赴任して以来33年間名古屋大学にお世話になりました。1973年に名古屋大学に入学したので、途中でインド留学が3年程ありましたが、半世紀近くこの東山地区に関わったことになります。学生時代は、インド留学時代も含めて師に恵まれて幸運でした。先輩や後輩、友人と楽しい時を過ごしたことも忘れられません。研究室(現インド哲学分野・専門)の運営では同僚の方々の力の大き ....

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1979年11月に名古屋大学を離れ、ナイジェリアの国際熱帯農業研究所、日本の農林水産省農業研究機関や独立行政法人で研究し、2005年4月、26年ぶりに名古屋大学に戻りました。農学は実学で、農業生産を高めるために行う研究であることを在学中に学び、根粒菌研究のスタートがアフリカであったので、今でも農学は現場で通用する技術開発のための研究だと思っています。フィールド研究とはやや異なる観点ですが、現場 ....

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1969年に名古屋大学に入学して1975年に卒業しましたが、教授として赴任したのは1997年です。いわゆる「東大安田講堂の攻防」があり東大入試が中止となった年に入学してから6年間の学生生活は、それまでの私の人生になかった疾風怒濤の時代であり、また大学にとってもダイナミックに揺れ動いた時期でした。1984年から5年間のニューヨークスローン・ケッタリング癌研究所での留学時代、1989年からの長崎大 ....

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2001年1月1日付で大気水圏科学研究所に赴任し、2001年4月1日から改組されて地球水循環研究センターとなった研究施設で研究を続け、足掛け15年間になりました。多くの大学院学生と一緒に研究ができ、大学を巣立った学生達が社会で活躍する姿を見て、名古屋大学での15年は楽しいものでした、皆さんに感謝いたします。この間に、大学が法人化され、地球水循環研究センターは全国の共同利用・共同研究拠点として認 ....

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私の大学生活を振り返ってみますと、最初は学問の基礎を学ぶ教養部の人文・社会と自然科学の勉強に始まりました。勉強をあまりしなかったということで、教養不足の自覚があったのを明確に覚えております。そのような経緯で、名古屋大学で教えるようになってからも、「教養部」という響きの故に敷居が高く感じられ、将来有る若者に悪い影響を与えては申し訳ないと思い、「基礎セミナー」のような各自の勉学の方向性に影響を与え ....

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私が名古屋大学に赴任したのは1995年1月17日阪神・淡路大震災の発生した当日でした。その後、2年間を応用物理専攻、5年間を計算理工学専攻と工学研究科でお世話になり、2002年から情報連携基盤センター、2007年から情報基盤センターの大規模計算支援環境部門教授として14年間全国共同利用の名古屋大学スーパーコンピュータを中心として計算科学、計算機科学の研究が発展するよう努めてきました。この間、こ ....

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平成7(1995)年に金沢大学から転任し、以来21年の在職となりました。その間、学部長・研究科長も経験しましたが、法人化後の様々な制度改正や新規制度の立ち上げなどが続き、なかなか葛藤の多い時期が続いたように思います。しかし、文科省の現代 GP「専門教育型キャリア教育体系の構築」が採択され、「キャリア支援・教育開発センター」の責任者として平成18~20年の間、名古屋大学に一定の寄与ができたかと思 ....

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名古屋大学に就職して15年間程お世話になり、その後15年間他の大学に異動し、また縁有って名古屋大学に戻ってきた。学生時代を含めれば、名古屋大学に30年以上在籍したことになる。この40数年間すぐれた研究者に出会えたことで、自分なりには面白がって充実した研究をすることができた。人に自慢できるような研究成果を出せたわけではないのが悔いる点では有るが、自由にある意味勝手な研究を許してもらったことを感謝 ....

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1979年4月、工学部附属自動制御研究施設の助手に採用され、学科の新設、大学院重点化などの組織改革の流れの中で、情報工学教室、電子機械工学教室と所属が変わりましたが、一貫して「システム制御の研究と教育」に携わることができ、しかも、この間、すばらしい先輩、同僚、学生諸君に支えていただいたことを心から感謝しております。 学生諸君には、学業に励み、専門的な知識や技術者としての素養を育んでもらうこ ....

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名大に27年間務めました。最初は文学部の共通講座に属してギリシア語・ラテン語を教え、赴任後 7 年目の大学院重点化では、周囲に支援されて西洋古典学という新講座を立ち上げることができました。その後20年間、古典教育を通じて様々な学生に出会い、また自分の西洋文化研究も存分にさせていただきました。特に文学研究科という多彩な人材に溢れた学問的環境の中で多方面に視野を広げ、専門研究の新しい可能性を探る ....

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1989年 9 月に千葉工業大学から名古屋大学に移ってきました。名古屋は生まれ故郷でしたが、建築計画学、特に劇場建築の研究を当時行っており、演劇や音楽の優れた公演が少ないと思われたこと、お付き合いをしていた演出家や舞台技術者などがほぼ関東圏に集中していたことなどで、名古屋に行くことに実は葛藤がありました。しかし、後を押したのは、わたしも関わった愛知芸術文化センターへの期待です。新国立劇場の計画 ....

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2001年、環境学研究科が発足する時に、名古屋大学に赴任しました。出身大学院は法学研究科で、大学では社会学を教えてきたという経歴からすると、環境学研究科のような、境界を越えた、異業種間交流の場のような研究の場は自分にあっていたのかもしれません。この研究科に来て、2004年に発生した超巨大地震スマトラ地震調査で、文理融合した研究を行なう機会を得ました。その研究成果は『スマトラ地震による津波災害と ....

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平成25年の4月に旧太陽地球環境研究所の教授として京都大学より赴任し、5年の歳月が瞬く間に過ぎました。私の専門は太陽地球系科学で、その中でも特に地球の磁気圏の中で起こる爆発現象であるサブストームとそれを駆動する磁気リコネクションと呼ばれる物理過程の解明に取り組んできました。平成27年度に再編された宇宙地球環境研究所は、地球温暖化や極端気象、また、太陽面爆発に伴う宇宙機の損傷、 ....

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1994年12月に京大ウイルス研究所から名大農学部に赴任しました。当初は阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件など暗い世相が待ち構えていましたが、東山公園や近隣の見事な桜に癒されました。研究所とは異なって多くの学部/大学院学生と接することにより、気持ち的にとても若返ることができました。肉体的な衰えは仕方ないとしても精神的な年齢を若く保つためには、新しいことに絶えず挑戦する意欲をもち続けることがその秘 ....

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2004年5月当時の胸部外科学講座に助教授としてお招きいただき、およそ15年間お世話になりました。卒後長らく一般病院に在籍し50歳にして初めて大学に戻りましたので、当初は診療以外の教育・研究に戸惑うことも多々ありましたが、多くの皆様のご協力を得て、曲がりなりにも務めを果たせたかなと思っております。2013年4月には胸部外科学講座から分離独立させていただき、名古屋大学に初めて呼吸器外科学講座 ....

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昭和53年より名古屋大学大学院医学(現、医学系)研究科生化学第二(現、分子細胞化学)研究室に大学院生および助手として合計で9年間在籍し、その後平成20年よりに名古屋大学大学院生命農学研究科栄養生化学研究室に教授として約11年間務めました。従いまして合計で約20年間もの長い間名古屋大学にお世話になりました。私の専門は、生化学を基礎とした栄養学ですが、名古屋大学で研究を実施できたおかげで、自身のラ ....

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1972年に医学部の教員となって以来、37年間名古屋大学で過ごしたことになります。1998年から新設された保健学科でしたが、学部運営の確立、博士前期課程、さらに後期課程の立ち上げと、教育研究組織の整備に多くのエネルギーを注ぎました。新しい保健学科をつくるという夢のある時間でもありました。博士課程設立後には、自治体や企業の保健師さんが大学院に入学してきて、私の研究フィールドも広がり、研究テーマも ....

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私が名古屋大学で過ごした期間は42年になる。1977年に大学院に入学し、1984年から助教授として教壇に立つことになった。この約40年間を振り返ると、高度成長から低成長、さらにはゼロ成長への転換があり、国際的には冷戦の終結と社会主義の崩壊があった。他方では、大学院時代には夢にも思わなかったICTの急速な発達によって、原稿は手書きからパソコン入力に変わり、資料の入手もほとんどがネットで可能にな ....

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名古屋大学の教員として二度お世話になりました。若い人たちと未知の生命分子の研究に取組み、成果を論文にまとめ、世界の研究者と交流のできる特別な環境を享受できた年月でした。2011年春には、大震災・事故があり、多くの人と同様に、広く周りの人のためにこそ人は懸命になれるという気持ちの中で大学としての対応にも取組みました。研究科運営、大学の評価・総合企画、博士課程教育プログラムも担当させていただき格別 ....

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昭和59年4月に本センターに着任して34年になりました。6 年間の学生時代、附属病院医員・学内研究生を加えますと42年もの長きにわたり、名古屋大学にお世話になったことになります。3月で名大を離れることは未だに信じ難く、未練があります。これも偏に松尾清一現総 長をはじめとする歴代の総長、本センターの諸先生方、事務方の皆様、保健管理室スタッフの皆様のお陰と感謝いたしております。今後は大学を ....

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私は1977年4月に助手に採用されて以来、38年間の永きにわたり、名古屋大学で教育・研究に携わることができました。これもひとえに一緒に学び、考え、躓きながらも歩み続けていただいた教職員および学生たちのおかげです。研究では、伝熱工学と燃焼工学の様々な課題を取り上げ、学生たち一人一人にできるだけ自由に選ばせることを心がけました。毎週のセミナーや研究打ち合わせでは、思い通りの結果でないことを悔や ....

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人生の大半を過ごしてきたこの東山キャンパスとも、この3月の定年の日をもって、お別れすることになります。長年にわたる皆様方のご厚誼にこの場を借りて御礼申し上げます。 大学教員の得なところは、いつも若い学生諸君と混じ合え、しかも相手は毎年同じ歳の新人がやってくる、彼ら彼女らの若さのエキスを吸い取って、気だけかもしれませんが、自分を若く保つことができるところにあると常々思っていました。 定年 ....

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定年を1カ月後に控えて、はたと考え込んでしまった。何を書いたらいいのかと。2000年秋に名古屋大学の経済学研究科附属国際経済政策研究センター(当時、国際経済動態研究センター)に赴任して、それ以後は矢のように時間が過ぎた。 気づけば定年を迎えている。大学の法人化、所属センターの存続問題もあった。大学は地域社会への貢献は勿論、国際社会での競争に直接晒されるようになった。学年暦もそれほど遠くない将来 ....

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民間企業の研究所での研究活動を終えて名古屋大学に着任して18年が過ぎようとしています。18年という長い年月も過ぎてみると早いものです。この間、常に若い学生と接することができ、おかげで、私自身も精神的には若さを保つことができました。着任した当初、卒業式の日に学生が嬉しそうにお礼のあいさつに来てくれるのとは裏腹に、私にとっては落ち込みの日でした。ようやく育った学生がいなくなりまたゼロから育てること ....

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定年まで3年を残して名大を去り、明治大学法科大学院へ移ります。法科大学院の設立と同時に赴任し、法科大学院長もさせていただいた9年間でしたが、学生、院生、助手時代を合わせると20数年間、東山キャンパスにいましたので、まさにホーム・ランドでした。これまで帰属意識の低い人間だと自認してきましたが、こうして退職することになると、結局、名大人として生きてきて、これからもそうなのだろうと思います。名大のよ ....

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学生には其々にやってみたいことがあり、将来に対する希望もある。昨今の大学は、この多様性に応えるべく大きく変貌を遂げてきているかに見える。ここでは研究者を目指す学生に向け今の思いを記す。 「オンリーワンを目指せ」は、昔から大学で言われてきたことであり、私もそうありたいと思った。しかし、挑戦的な研究テーマに取り組むのは難しく、定年間際になってやっと若い時に挑戦してみたいと思った問題への独 ....

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定年に際し感想を書け、ということですが、いろいろあったなという想いが先行し、なかなかまとまりません。18年前に名大に戻った時には予想もしなかったことがいろいろあり、長かったようで、短いような感じに捉われます。いつかくる定年の時には、静かに来し方行く末を考えてみたいと思っていましたが、現実は、例年と全く同じような速度で時間が流れて行きます。 とはいえ、改めて思えば、これまでの皆さんのご厚情に ....

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先ずは、名古屋大学で36年間教育研究させていただいたことを深く感謝しております。今振り返ると、その間にいろいろなことがありました。一番良かったことは、素晴らしい先生方に出会えたことです。航空学科は、昔は工学部3号館北館にあり、隣は土木工学教室で、多くの土木の先生とお知り合いになることができました。そのあと、工学部2号館に移り、そこでは、機械工学科の多くの先生と知り合うことができました。その他、 ....

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私は、1976年金沢大学医学部卒業後、しばらくは臨床に従事してきましたが、1981年シカゴ大学への留学を機に研究に携わることになりました。そして、留学中に名大環境医学研究所(環研)からお誘いがあり、1984年から約30年間環研で医学研究を続けてきました。1997年には教授に就任しましたが、翌年松尾総長により招集された「名大の将来を語る会」の第1期メンバーの一員として加わることができ、医学部のみ ....

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名古屋大学にドイツ語講師として着任してから、24年もの年月が過ぎてしまいました。この度無事定年退職ができるのも、ひとえに素晴らしい同僚たちや職員の方々、そしてとりわけ優秀な学生たちに恵まれたおかげであり、この場を借りて心から感謝の気持を表したいと思います。 愛知県に生まれ、またこの地で育った私にとりましては名古屋大学の評判は昔から大変良く、いつかそのような大学で仕事ができるとは夢にも思いま ....

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