タグ「定年」には 17 個の授業があります.

私は2015年3月末をもって名古屋大学を定年退職します。名古屋大学在職中に関係の皆様から寄せられたご厚情に対し、心よりお礼申し上げます。私は名古屋大学において、2つの部局でお世話になりました。医学部 (医学系研究科) と教育学部 (教育発達科学研究科) です。私は医学部を卒業後、精神医学教室で、一般精神医学と児童精神医学のトレーニングを受けました。その間10年近く、いくつかの公的精神病院に勤務 ....

続きを読む →

私は本学の理学研究科で学位を得た後に、プラズマ研究所、プラズマ科学センター、そして1995年からは理学部にお世話になりました。所属場所はキャンパス内の1 km弱の距離を行ったり来たりしていたことになります。ただし、プラズマ研究所時代に2年間の米国留学という大変貴重な経験をさせていただきました。非社交的な私ですが、何故か米国生活がとても楽しく、それだけに短い滞在期間にも関わらず、深甚な影響を受け ....

続きを読む →

大阪大学、基礎生物学研究所を経て、名古屋大学では理学部生物学科と遺伝子実験施設でそれぞれ助教授、教授として合わせて18年間お世話になりました。若き日に生物化学者にあこがれて大学の理学部に進み、大学院生として主に研究所で育ち、研究者として研究所で研究に専念し、名大にお世話になってからも4年間の学部教員の後に、遺伝子実験施設で博士研究員中心の研究室を持ち、研究専念の幸せな研究者人生を送ることができ ....

続きを読む →

昭和63年9月に名古屋大学に着任してから25年が過ぎました。長いようで過ぎてみれば一刹那です。「歳月人を待たず」、「光陰矢のごとし」月並みではありますが、退任に際し実感する言葉です。 最初は医学部でお世話になり、先端技術共同研究センターを経てエコトピア科学研究所で定年を迎えました。私の専門は細胞生物学で、生命現象の「場」としてのアクチン細胞骨格の空間構造を電子顕微鏡により解析しております。 ....

続きを読む →

1969年に名古屋大学に入学して1975年に卒業しましたが、教授として赴任したのは1997年です。いわゆる「東大安田講堂の攻防」があり東大入試が中止となった年に入学してから6年間の学生生活は、それまでの私の人生になかった疾風怒濤の時代であり、また大学にとってもダイナミックに揺れ動いた時期でした。1984年から5年間のニューヨークスローン・ケッタリング癌研究所での留学時代、1989年からの長崎大 ....

続きを読む →

名古屋大学に就職して15年間程お世話になり、その後15年間他の大学に異動し、また縁有って名古屋大学に戻ってきた。学生時代を含めれば、名古屋大学に30年以上在籍したことになる。この40数年間すぐれた研究者に出会えたことで、自分なりには面白がって充実した研究をすることができた。人に自慢できるような研究成果を出せたわけではないのが悔いる点では有るが、自由にある意味勝手な研究を許してもらったことを感謝 ....

続きを読む →

1994年に理化学研究所から理学研究科に異動してきました。学部と大学院での勉学・研究生活も含めれば、名古屋大学には32年の長きに亘りお世話になりました。自由な雰囲気の下で研究を続けさせていただき、心から感謝しています 振り返ってみますと、新しい場所に移るたびに研究テーマを大きく変えてきました。名古屋大学に赴任した時に掲げた研究テーマは膜タンパク質の反応状態の構造解析でした。当時の私にとって ....

続きを読む →

宇宙船アポロ11号が月面着陸し人類が初めて月に足を踏み入れた年 (1969年)に名古屋大学工学部に入学して以来、学生として9年、教員として38年の半世紀 (47年)に亘り名古屋大学にお世話になりました。 学園紛争の真っただ中、晴れて入学したキャンパスで真っ先に目にしたのは立て看板の列であり、47年通い続けた東山キャンパスの始まりは、教養部封鎖による休講と学生集会の日々でした。工学研究者とし ....

続きを読む →

2001年に環境医学研究所教授に赴任し、あっという間に14年が過ぎた。1975年名古屋第二日赤病院で研修医を初めてはや40年である。当初は将来研究畑を歩き教授で定年を迎えるとは想像すらしなかった。漠然と神経内科を希望し、第二日赤を研修先に選んだことが私にとって最初の幸運であった。そこで神経内科の奥深さ、面白さを教えられ、将来は神経内科の臨床医として働くつもりであった。それが狂ったのは、第一内科 ....

続きを読む →

私は、本年3月31日をもって名古屋大学を定年で退職します。 平成10年4月に、名古屋大学医学部附属病院の第一内科学講座から新設された医学部保健学科に赴任し、以来17年間をここ大幸地区で過ごしました。 赴任した当初は、学科自体が名古屋大学医療技術短期大学部から4年制大学へ改組された新たな出発でしたので、学科としての歴史がなく不安な面もありましたが、逆に自分たちの考えを生かして教育、研究を ....

続きを読む →

人生の大半を過ごしてきたこの東山キャンパスとも、この3月の定年の日をもって、お別れすることになります。長年にわたる皆様方のご厚誼にこの場を借りて御礼申し上げます。 大学教員の得なところは、いつも若い学生諸君と混じ合え、しかも相手は毎年同じ歳の新人がやってくる、彼ら彼女らの若さのエキスを吸い取って、気だけかもしれませんが、自分を若く保つことができるところにあると常々思っていました。 定年 ....

続きを読む →

早いもので、私も定年を迎える歳になりました。19年に亘る名大での教員生活は、いつも何かに追われているようなあわただしい日々でしたが、大変に充実した日々でもありました。大学院重点化に大学法人化そして評価漬けによる、何か虚ろな忙しさもありました。しかし、変革期あるいは発展期にあった理学研究科および化学科の一員であったことによる昂揚、時には痛々しいばかりの昂揚に拠る充実した忙しさでした。自身の理学研 ....

続きを読む →

定年を1カ月後に控えて、はたと考え込んでしまった。何を書いたらいいのかと。2000年秋に名古屋大学の経済学研究科附属国際経済政策研究センター(当時、国際経済動態研究センター)に赴任して、それ以後は矢のように時間が過ぎた。 気づけば定年を迎えている。大学の法人化、所属センターの存続問題もあった。大学は地域社会への貢献は勿論、国際社会での競争に直接晒されるようになった。学年暦もそれほど遠くない将来 ....

続きを読む →

定年まで3年を残して名大を去り、明治大学法科大学院へ移ります。法科大学院の設立と同時に赴任し、法科大学院長もさせていただいた9年間でしたが、学生、院生、助手時代を合わせると20数年間、東山キャンパスにいましたので、まさにホーム・ランドでした。これまで帰属意識の低い人間だと自認してきましたが、こうして退職することになると、結局、名大人として生きてきて、これからもそうなのだろうと思います。名大のよ ....

続きを読む →

定年に際し感想を書け、ということですが、いろいろあったなという想いが先行し、なかなかまとまりません。18年前に名大に戻った時には予想もしなかったことがいろいろあり、長かったようで、短いような感じに捉われます。いつかくる定年の時には、静かに来し方行く末を考えてみたいと思っていましたが、現実は、例年と全く同じような速度で時間が流れて行きます。 とはいえ、改めて思えば、これまでの皆さんのご厚情に ....

続きを読む →

名古屋大学には、19年間お世話になった。この間、キイロショウジョウバエをモデル系としてがん遺伝子をはじめ、進化的に保存された様々な遺伝子の発生過程における機能を解析して来た。予想どおりにうまく行った研究もあれば、うまく行かなかった研究もあり、反省するところ多々ありである。気がつくと定年を迎えていたという状況で、まだまだやり残したことがある。定年延長で、 1年間余分に在職することが出来たことは幸 ....

続きを読む →

この3月末をもちまして名古屋大学を定年退職いたします。これまでご厚誼を頂きました皆様に厚く御礼申し上げます。 名古屋大学には昭和43年4月に工学部機械学科に入学して以来、47年間お世話になりました。最初の9年間は学部、大学院修士および博士課程の学生として学び、残りの38年間は教員として奉職させていただきました。特に思い出深いのは、教養部在学中の大学紛争、平成8年度から4年間にわたって就任し ....

続きを読む →


全てのタグ